日常

中尊寺を巡る…

先日、岩手県の平泉に行ってきました。

私は子供の頃から日本の歴史が好きで、小学生の時は図書室で日本の偉人の本を読み漁る子供でした。

その原点が源義経。

NHKだったか民放だったか忘れましたが、テレビのドラマで源義経を観て子供心に「かっこいい!」と感動し、それから図書室で義経の本を探して読むようになったのが歴史好きになるきっかけです。

その義経の最期の舞台となった平泉には以前から行ってみたいと思っていました。

念願叶って本当に嬉しい。

平泉の町並みは歴史情緒に溢れていて、とても良い雰囲気でした。

郵便ポストも赤くない(笑)☝

徹底してますね。

その平泉の中心にあるのが中尊寺。

日本人なら誰もが知る世界遺産です。

中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開かれ、その後12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われたと言われています。

清衡公の中尊寺建立の趣旨は「11世紀後半に東北地方で続いた戦乱で亡くなった霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する」というものだったそうです。

それから平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄しましたが、平氏政権を倒した源義経が兄頼朝と対立し平泉に落ちのびてきたことで状況が変わります。

義経を迎え入れ保護した奥州藤原氏3代当主秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込んでしまうのです。

そして、結局その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)に奥州藤原氏は滅亡してしまいました。

悲しい話です…

奥州藤原氏という大きな後ろ盾を失った中尊寺は、鎌倉時代以降衰退していきましたが、それでも地元民の信仰で守られてきたため、国宝建造物第1号の「金色堂」をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられています。

東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称され、平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登録されたのは皆さんもご存じの通りかと思います。

中尊寺は「中尊寺」という一つのお寺のことではなく、その敷地内に数々のお堂や神社が立ち並んでいる神社仏閣の集合体です。

仏教の寺なのに神社があるというところが、神仏習合の日本らしいですよね。

敷地内に入ると、まず現れるのが「月見坂」という長い長い坂道。

巨木に囲まれた坂道は結構な傾斜で息が切れるほどでした☝

しかし、その道も荘厳で、清々しい気持ちで歩けました。

その坂を上りきると「東物見台」があり、山の上から平泉を一望できます☝

ちょっと高くて怖いくらいでしたが、とても綺麗な景色でした。

東物見台から少し行くと「弁慶堂」が見えてきます☟

源義経、一の家来と言われる武蔵坊弁慶。

平泉に頼朝軍が攻めてきた時、最後まで義経を守って戦い、死してなお倒れることがなかったという「弁慶の仁王立ち」は有名ですよね。

私も憧れの弁慶になってみました☟

こういうのがあると観光地って感じがしますよね(笑)

この弁慶堂の中には義経と弁慶の木彫りが安置されていることから「弁慶堂」と呼ばれるようになったとか。

では「義経堂」はないのか?と言ったら、無いんですよ。

一部の学者によると、義経は平泉で自害したとされていますが、実は逃げ延びており、そのまま中国大陸に渡ったと。

そして、大陸でチンギスハーンを名乗りモンゴル帝国を建てて大陸を征服した。

だからこの地に義経は眠っていないため、祀られているお堂もない。

なーんていう話もあるんですが、果たして真相は如何に??

歴史情緒溢れる中尊寺。

続きはまた後日書きますね。

お楽しみに♪

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